『解業』(赤々舎)
「かいぎょう」ではない。巻末に示唆されているように、「げごう」と読まれなければならない写真集である。作家の後書きを引こう。「自分の写真は見た人の業を一瞬でも軽くし解いていく。出会う人にとってもそういう人間でありたいし、自分の写真もそうでありたい。」
そう述べる写真家・鈴木育郎にとってはこの『解業』が初出版になった。だが、これまで一点物の私家版を幾冊も自主的に編んできた鈴木の『解業』は、初出版とは思えない「流麗な」出来になっている。そしてこの初出版を皮切りに、毎号異なるブック・デザイナーで同じ赤々舎から12ヶ月連続で写真集が出版されるというのだから、プロジェクトの方の勢いにも心躍る思いがする。
鈴木は、食事に独特の視線を向けている。即物的な食べ物の写真からは、それをつくり、それをたべる人の、苦労と喜びが想い起こされる。まさに業である。中華そばとそれをつくって生きてきたのだろうご主人の写真は見開きになっているが、そうなっていなくても料理と飲食店の従業員との写真は随所に登場してくる。
食への眼差し方は、彼の職歴にも由来しているだろう。主に鳶職で生計を立ててきたが、カフェなどでもバイト経験があるとのことである。労働で疲弊した肉体に染み入る食べ物の味や、料理をつくり差し出す側の営為を共に知っていることが、彼の食べ物写真の根幹にあるような気がしている(1)。
業とは何だったか。輪廻と密接に結びついたこの概念は個我の苦しみと不自由であると同時に、喜びと生命力の源である。だから業からの解脱とは、解脱が目指す梵我一如のようにそれら不二の物事の表裏一体性を示すことになるだろう。『解業』の湧き起こす感動は、きっとこの同時性をこそ、映しえていることに秘密の一端があると踏んでいる。
したがって、巷で見た人に生きている実感をあたえてくれるとささやかれている鈴木の写真が、死を写し込んでいないわけでは決してないということは見逃されてはならない。食べ物はそもそも死んでいる。消費期限は人工的な寿命にすぎない。鳶の仕事は建てるだけではない。解体もする。水を失って干からびた魚は直接的だが、写真の写真のように間接的に「死」を示すイメージも多々ある。死は生に反転するように輪廻する。
こうして、「すべての写真は幻」と断言する鈴木の写真はたしかに「出会い」を要請するだろう(2)。写真を見ている人は幻ではない。強い物語性をもって写真集を綴り、すでに「不二一元」をときはじめたように思える『解業』が人々と出会い、完成するのはまだこれからである。
(1) 写真新世紀グランプリ受賞時のステートメントを参照のこと。http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/gallery/2013/ikuro_suzuki/index.html (2015/10/18)
ただし、撮影に臨んでの写角というか、撮り方を規定する身体感覚は、高所作業の恐怖を克服しなければならない鳶職や、われわれがまだその全貌を知り得ていない、舞踏の経験などによってもたらされたものと思われる。この点については次作以降をまち、追ってふれていきたい。
(2) 鈴木が意識的に用いているかはわからないが、幻(マーヤー)もまたインド思想・仏教の用語であることに注意しておこう。たとえば縄を蛇に見せるのが幻で、大まかに言ってこれもまた解脱の対象である。
幻が何に出会うのかという点に関して鈴木の「出会い」観の一端を援用しておこう。
「俺の写真は、理想としているものが写っています。それを見たいと思うんだったら、自分の置かれている環境を振り返ることができる。(中略)化学調味料の入ってるラーメンより、ほんとにうまいラーメンを探せよ、食えよとか、ブルーベリーを枝からプチっと取って食ったことがあるのかということなんです。そうなると山に行って、田舎に行って体験しなくちゃいけないよというような話になる。」(「写真新世紀2013グランプリ受賞者インタビュー」『写真新世紀2014パンフレット』、キヤノン、pp. 51-52.)
ここでの例は食べ物だが、続いて人との出会いについても同インタビューのなかで述べている。鈴木の言う「すべての写真は幻、出会うその時まで」には、こうした含意があるように思われる。
※リンクは赤々舎様に許可をもらいまして、バナーはご厚意により頂戴しました。記して感謝いたします。
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