『すべて写真になる日まで』(IZU PHOTO MUSEUM)
本書はダムに沈む村を撮り続けた「カメラばあちゃん」こと増山たづ子(1917-2006)の写真を集成した展覧カタログである。この書物を一面的に感想するのはむずかしい。国家、戦争、過疎など、山間の小さな村が解決するには大きすぎる問題が当該世代にいっぺんに集中してしまっていた。たしかに、公的出版物に載るような文章なら、そのような厖大な絶望にたとえ僅かでも希望を見出す論風が要されるだろう。だが、ここでは敢えて徹底して狂気という相のもとに増山の写真を受け止めてみたい。思うに、そのただ一点がきづかせてくれることは少なくない。
消失する前の村の記録が大部分である増山の写真のどこに狂気が読み取れるのか。行政の決定が村に通達されるような場面を除いては、村人の笑顔や豊かな自然に彩られた画面で構成されているのではなかったか。実際、ページをめくっていって、ある一枚の写真に出会うまでは、おそらく誰もそこまでの言葉を想起したりはしないのではないだろうか。
286ページである。画としては、一見、雪が薄く積もったお墓を写しているだけのように見える。しかし、キャプションのようについている一文を読んで驚愕する。「家を壊すときに、御先祖様に申し訳がないといって、見えないように石碑に晒を巻いた。」よく見ると、てっぺんに積もった雪と違って、横面の白は晒だったのだ。石碑に晒。この行為によって、増山の御先祖様や植物に対する発話内容が共同体の伝統的思考習慣の単なる横流しのような動勢が言わしめているものではなく、意志の上に立命した一個人としてまったき正気の沙汰だったことがようやく明確に意識しえた。そして、ひとたびそのような血魂の通った本気の文面として、増山の文を読み直すと、まるで言葉の間隙から漏れ出てくるように開示される狂気の存在が、写真にも悲哀の影を映してもはや止まなくなるのである。
このページから戻れば、そうなる。進めば、もっと絶望を深める。村人が退去したあとの、おきざりにされた位牌。破裂した水道管。タガが外れた風呂桶。電信柱にかかったままの止まった振り子時計。残された物のことを捨て置いたとして、転居した村人たちの方が元気でやっていればなどと安易な救いを求めようとも、バラバラになった弊害のみならず、補償金で建てた家の固定資産税を払えず結局家を売り払った者もあったり、どこまでいっても冥(くら)くなる。増山は村がなくなることを「ミナシマイ」と言っていた(1)。
ミナシマイのはじまりはどこからだったのだろう。村長が調印したときか、国家がダム政策を推進したときか、過疎で人口が減少したときか、戦争が村人を奪ったときか。ミナシマイは止められたのか。村人たちのあらゆる抵抗は流れをくつがえすことはできず、おさえこまれてしまった。そんななか、唯一成しえた抵抗こそ、増山の写真行為だったというのは、他論でもすでにふれられているようなことで、何も新しくないだろう。もしくは、その抵抗もまったくの無駄だったなどとただの悲観を述べることも意味がないだろう。むしろ、その抵抗には大きな意義があったというのは、広く認められていることではないのか(2)。
だから、ここでいう狂気とは、もっと別のことである。霊魂の問題といってもいい。どういうことか。
増山が写真をはじめた動機は、村がダムに沈むこともあったが、戦争で行方不明になった夫がもし帰ってきたとき何もなくなっていたら申し訳ないから、せめて記録を残して、守ってきた村の姿を伝えることが目的だったという。増山にとって村はひとり故郷であるばかりではない。夫が帰ってきてくれるかもしれない唯一の場所だったのだ。その場所の消滅はすなわち、夫の帰還を完全に諦めることを意味する。夫が帰ってくる家を壊されるとき、増山は墓に晒を巻いた。一番認めたくない現実を見たくないかのように。この行為には魂の叫びが内在していないだろうか。それをここでは狂気と呼ぶ(3)。
狂気の相のもとに撮られた写真はどこまでも悲しい。ひとは真暗闇のなかで光を求めずにはいられないだろう。それでも、敢えて徹底的に狂気を狂気のままに引き受けること。耳に聞こえないはずの霊魂の声を聴くこと。このようにして、増山の写真はきっと冥界への扉になる。
けれども、これらは写真である。むろん、写真の後ろに冥界があるのではない。冥界とはわれわれが生きている現在の運命だ。現在は、過去になると同時に未来になり続ける。一寸先も後も闇なのだ。写真だけが、あるいは写真的なものだけが、われわれに冥界を現像して見せてくれる。ひるがえって、増山の写真をもう一度見てみる。そこには、冥くなる間際の現在の光描が切り出されている。現在は、光の速度すら超えることができないわれわれの神経系では把促できない。紙に印されて外在的な具象となってはじめて、仔細に意識されうる。それまでは年代的な記憶をもつモノから派生しては消失する刹那の電気信号にすぎない。繰り返すが、写真には冥くなる間際の現在像の一様相が写っている。
一つ、注記しておかなくてはならない。増山はもう故人である。追い討ちをかけられたように、まだまだ現在は冥くなる。冥さを知れば知るほど一縷の光は果たして明るくなるか。答えはわからない。だが、写真はあの世を問うための扉を現出させてくれる。生きているあいだは決して開かず、また誰も見ることのできない彼方の。真っ暗闇の時間。それをわれわれは過去と呼んできた。(視覚)像的過去には大きく分けて二つあるだろう。写真が感光していなければ永遠に失われた光の配列。ニューロン発火で照らされなければ感得できない脳内信号。伝統的に、前者は記録、後者は記憶と呼ばれてきたのではないか。写真を撮ることと見ることとは、したがって、記録と記憶を往還する行為である。諺に「雨滴石を穿つ」というが、逆に、大海に小石を投げ続けるような行為である。光を明滅させることでわれわれは闇の素地を見ることができるのか。そもそも素地などあるのか。穿って現れるのは所詮、空ではないのか。謎は尽きない。
徹底的に冥さを凝視しようとしたわれわれはいまや、増山の言葉のひとつをある遺言のように聴くことができるかもしれない。
イラ(私)がどうしてなぁ、ツバキの花が好きかっていうと、特に一重のツバキが好きなの、八重よりは。それはツバキはな、こやってポロって落ちてもな、下へ向いて笑っとるの。あんたたちゃ気が付かんか知らんけど。ツバキはね、こやって下へ向いて笑っとる。みんなこんなふうにしてな。落ちても笑っとるの。(p. 367)
冥くなるとしても笑うのだ。それは写真になるのだ。ミナシマイになるまえの笑みは実在する。写真はこうしてこの世で唯一、像の実在をあかしてくれる。過去の実在の証が現在の信になる。その意味で、写真行為はあの世とこの世の不可能な合一を試みようとする狂気の沙汰であるが、実行できる唯一の手段だ。だから、増山の写真は悲しいがどこか遠くの方から勇気をくれる写真であると私には思える。「マックロケの話。」
(1)新宿にあるphotographer’s galleyで行われた増山の写真展「ミナシマイのあとで」は、タイトルに反してミナシマイのまえの村人たちのポートレートを展示していた。それもそれぞれ小さなサイズで、少しだけ。こうしたphotographer’s galleyの意図は興味深い。このブログの執筆時は未読だが、photographer’s galley’s pressの新刊は「ミナシマイのあとでをめぐって」の特集が組まれているとのことである。追って参照したい。
(2)村の記録はもちろんのこと、テレビ出演を通しての社会問題化への寄与、無形文化遺産としての習俗や民話の保存などにもつとめたことは本書の解説にくわしい。
また、写真家としての評価は、増山が第9回木村伊兵衛賞の候補者の一人だったことひとつとってみても知れる。過去40回の歴史の中で、唯一該当者がいなかった幻の回だが、候補者が錚々たる面々である。植田正治、杉本博司、須田一政などなど。
(3)言うまでもなく、ここで狂気という言葉は中立的に用いているつもりである。「狂う」という言葉は古くは「くるほし」であり、語源に「くるくる」をもつとの説がある(中西進『狂の精神史』講談社文庫、1987を参照のこと)。図像でいえば円環をイメージしている。円自体には元来、正負いずれの含意もないだろう。その場に渦巻いてどこにも繋がらない。いわば成仏しない。霊魂の滞留を記録しているかのような写真。それゆえ狂気だが、この狂気は上述の情況にかんがみて、まったくの合理である。何もおかしくなどないだろう。
※画像は書籍の裏表紙と中表紙(部分)
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